2018/05/08

もに


昨日歩いたせいか、今朝は起き上がれなかった。
もう一回寝て、起きてまた寝て起きたら昼だった。
身体が痛いしだるいし希死念慮が頭から離れない。大丈夫大丈夫と自分に暗示をかける。
なんとか起き上がってキッチンに行き冷蔵庫を見たら味噌汁があって、おじやでも作ろうと思い冷凍の米をレンジにかけつつ鍋に火をかけようとした。なんだか下腹部に違和感を感じ、トイレに行ったら生理だった。起き上がれなかったのはこれかよ。
キッチンに戻り、鍋を火にかけ、お麩があることを思い出してお麩を水で戻して温まった米の後に鍋に入れた。最後に卵を入れて火を消して蓋を閉めてシャワーを浴びた。シャワーを浴びたら歯磨きをしたくなって歯磨きをした。あ、おじや食べてないなと思って歯磨きをしたけど食べた。お麩は正解だった。もにっとする感触が好き。でも私は小麦が体質に合わないっぽい。こんなに好きなのにな。



2018/05/01

ゆれ


めちゃくちゃ怒られて、ちょっと泣いてしまって、本当はわんわん泣きたくて、大人だからだめだーと思って我慢して帰って、史奈に電話した。ぺー(私のあだ名)は悪くないだしょと言ってくれた。いつだって持つべき友は史奈。
紀伊國屋の滋賀のガイドブックは少ししかなくて、大体同じことが書いてあった。ファーストキッチンで明太ポテトを食べた。抹茶フロートも飲んだ。全然大丈夫じゃないけど、大丈夫。かなしいな。



2018/04/07

無の


解体工事をしていく様を毎日見ている。
通る度に作業は進んでいき、ついに更地になった。
今まで何の疑問も持たずに見ていた建物が、急に無になり、その向こうの景色を見せ出す。
いつか建物がどんな風であったか思い出せなくなるんだろうけど、また町の一部を喪った、みたいな感覚。

陳腐な約束を私たちはしがちだが、
陳腐でも約束は約束で、それがあると気持ちの拘束力が生まれたりする。
でも、気持ちに拘束力が生まれにくい・生まれない人間もいるわけで、幾度となく過ちは繰り返され、その度に傷ついてきた。
バンドマンという生き物に何かを期待する方がアホでバカで間抜けなんでしょう。
まぁ私も世間的にはバンドマンなんだけども。
もう結構この世界の雑さにうんざりしている。

低気圧で頭痛いし、もう一回寝る。



2018/03/30

今日の日記


電影と少年CQのレコーディングの立会いに行った。スタジオが石神井公園で、終わってからCQ運営の長田さんに誘われて公園の方を通って帰った。桜が満開で、人がゆっくり歩いていた。池があってボートに乗れるが、もう受付時間は終わっていた。
駅に着いたら、長田さんが路上で一杯飲みたい!と言い、頭痛に耐えきれずロキソニンを飲んでいた私はリアルゴールドにした。駅前の商業施設の前にベンチがいくつかあって、そこに座った。未就学児であろう子供が転んで、お母さんは大変だなぁなどと発声した。ベンチにはもうあまりスペースがないのにおばあさんが無理に腰掛けてきて笑った。長田さんはひらひらとバスで帰って行った。私はのろのろと電車で帰った。
乗り換えを間違えて無駄な時間とお金を使い、なんとか最寄駅の隣の駅に着き、友人と合流した。これまた路上飲みである。
友人はお茶割りを求めてコンビニをはしごしたが見つからず、ビールで妥協していた。私はほろよいの新商品のあまり甘くないサイダーを飲んだ。
川沿いに桜が植えられていて、粗末な椅子があった。粗末な椅子でも椅子なので、立っているよりは気分がよかった。
私の家の最寄駅までだらだら歩き、公園に行ったりスーパーに行ったりして最後は日高屋に行った。
私はメンマを頼んで酢をつけて食べた。友人はチャーハンと餃子を頼んでいて、餃子を半分くれたからもぐもぐ食べた。
友人と解散して家に帰ると、何故かディズニーリゾートのお土産袋の隠れミッキーをさがす流れになり、探しまくっても見つからず、ライブの時にもらったチーズたらならぬチーズいかをもぐもぐ食べる行為だけが進んだ。
気がついたら結構いい時間で、私は着替えて布団に入って寝た。
2時半くらいにちょっとした悪夢で起き、しずくだサポートギターのみねから送られてきた新曲の構成を見つつ音源を聴いて歌詞を書いて送り、最近購入したスケラッコ先生のエッセイ漫画を読んだ。「しょうゆさしの食いしん本」というタイトルだ。タイトル通り、おいしいものをひたすら食べるエッセイ。おなかが空くのは勿論なのだが、何か文章を書きたくなってメモ帳を開いた。ブログアプリで書くとすぐ落ちるからだめ。明日というか今日は三鷹でライブ。



2018/03/20

人間との暮らし


人間との暮らし は

たぶん向いていない。
人と四六時中いることがつらい。四六時中気にされることがつらい。
表情の作り方、目の動き、呼吸のタイミング、風呂の時間、お湯の温度、料理の味付け、喫煙するかどうか、快適に感じる温度、飲みに行く頻度、米を食べるか、外食か自炊か、食器は上質か、お茶は麦茶かハーブティーか、好き嫌いがあるか、下品なテレビを見るか、食器をすぐに洗うか、掃除はまめにするか、仕事に集中させてくれるか、怒りっぽくはないか



2018/02/17

水がおいしい


2018.2.16 八丁堀七針
Gt.みね

1.さみしさのABC
2.水色
3.ループ&ループ
4.また会えるさようならもう会えないさようなら
5.忘れる
6.おしまい



ふいにパラレルワールドに連行されてしまった。
優しくない人の前で泣いても煙たがられるだけだから、気づかれないように泣く癖がついた。泣いているのがバレても、それがまさか目の前で繰り返された自殺未遂を思い出していたからだとは言えなかった。この文章も読んでいないだろうから書いている。

水は軟水が好き。



2018/02/04

物の所有を学ぶ庭


ジエン社の「物の所有を学ぶ庭」の稽古に参加している。と、言っても舞台上で演じるのではなく音楽で参加するためだが。

今回の作品は、所有の概念が多くの人と違う「妖精さん」を庭に住まわせ、所有の概念を少しずつ共有できるように教えていく、という話。恋愛モノではないし劇的な展開もなく、一見地味だがすごく面白いテーマだ。


私たちは多くの物を「所有」していると思っている。だが、持ち主が死んでしまったらその物はどこへ行くだろう。棺桶に一緒に入れられることもあれば捨てられることも、新しい持ち主の手に渡ることもあるだろう。私たちは一時的に所有しているに過ぎない、と私は思っている。
食べられる物だったとしても同じだ。栄養素を吸収し、残りを自分の細胞に蓄える。でもやがてその細胞も排出される。私たちが未来永劫所有できるものなんてひとつもない。
では、思想はどうだろう。頑固ジジイや考えが変わらない偏屈野郎は同じ思想を持ち続けているのだろうか。もしかしたらそうと言えるかもしれない。でも大抵の人間は自覚的であれ無自覚であれ少しずつ思想が変化している。長生きすれば必ず認知症の症状が現れ、元々の性格を反映した認知症状が見受けられるようになる。少しずつ、あるいは大幅に変化する思想を私たちは持っていると言えるが、それも身体がつきるまでの話。生命には必ず終わりが訪れる。宗教や各々の思想によって解釈は色々あるだろうが、科学という考え方においては命が尽きたら思考できなくなる、というのが通常のようである。

夫婦、彼氏・彼女という制度を採用している人間が日本文化圏(日本人とは言わない)には多くいる(ように思うが実際はどうなのだろう)。
人間を「所有」するという主義・主張の最たる例だと思っているが、人間を所有することは人道的に考えると大変難しい。人道的なことを無視し、どこかに監禁して所有した例を聞かなくはないが、通常の人間関係における所有は、ただの約束に過ぎない。
日本文化圏の人間は「付き合って」と言って了承を得ることで所有を言語化するが、欧米人にはその文化がないことが多いらしい。言語化せず、暗黙の了解で全てが進むのだろうが、それこそ妖精さんには難しい例であろう。
そもそも「付き合う」とはどういう状態なのだろうか。「あなたは私の恋人で、私はあなたの恋人であるから原則的に違う人間と同様の関係になってはいけない」が一般的なのだろうが、罰則はない。でもドラマや映画では浮気がバレて修羅場と化しているシーンが描かれる。出典元はないが、「泥棒猫」などという表現があったような気がする。「所有」していなければ「泥棒」にはならない。
結婚は、相手の所有を明文化し、行政が介入することによる「契約」であるから、不倫をして裁判になって負けたら慰謝料が発生することもある。それでも不倫は尽きない。ではなぜヒトは結婚したがるのか。所有の契約が存在しない動物たちとは違うと思いたいのか、一途に生きられると思っているのか、結婚すればなんとかなると思っているのか。
恋愛・結婚いずれにしても、勝手に生きている人間を所有することを宣言するなんてちょっと狂っているのではないかと思う時がある。どこまで行っても相手は他人なのに「自分のもの」と宣言することへの恐怖が私自身にはあるが、相手が魅力的だから約束しておきたいし他の人と付き合わないでほしいという気持ちもすごくよくわかる。
ああ、26歳になったのにどれくらいの文字数かわからないが長ったらしい文章を延々と書いてモテなさを加速させる寂しい女ができあがってしまった。これにて閉会。